もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら
青年 先生はもうお忘れになったかもしれませんがね、わたしはよおく覚えていますよ。3年前、いちばんはじめにあなたは、こんなふうに断言された。われわれは誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけした主観的な世界に住んでいる。われわれが問題としなければならないのは、「世界がどうであるか」ではなく、「世界をどう見ているか」なのだ。われわれは主観から逃れることはできないのだ、と。
哲人 ええ、そのとおりです。
青年 じゃあ聞きます。主観から逃れられないわれわれが、どうやって「他者の目」や「他者の耳」を持ち、ひいては「他者の心」まで持てるというのです!? 言葉遊びはいい加減にしていただきたい!
哲人 大切なところです。たしかに、わたしたちは主観から逃れることはできません。そして当然、他者になることもできない。でも、他者の目に映るものを想像し、耳に聞こえる音を想像することはできます。
アドラーは、こんなふうに提案しています。まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから、「きっと自分も、この人と同じようなやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ、と。
青年 同じ種類の心と人生……?
哲人 たとえば、まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく、まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち、同じ人生を持っていたら?」と考える。つまり、自分が彼と同じ年齢で、彼と同じ家庭に暮らし、彼と同じ仲間に囲まれ、彼と同じ興味や関心を持っていたらと考える。そうすれば「その自分」が、勉強という課題を前にどのような態度をとるか、なぜ勉強を拒絶するのか想像できるはずです。……このような態度を、なんと呼ぶかわかりますか?
青年 ……想像力、ですか?