尊敬からはじめよ、と哲人は言う。教育だけではない、あらゆる対人関係の土台は尊敬によって築かれるのだと。たしかに人は、尊敬できない相手の言葉には耳を貸さない。哲人の主張にも理解できる部分はある。しかし、すべての他者に尊敬を寄せよ、学級の問題児も、世間にはびこる悪党どもも、すべて尊敬の対象なのだ、という主張には断固反対だ。しかも、この男は自ら墓穴を掘った。看過できない矛盾を口にした。やはり、わたしがなすべき仕事はこれなのだ。この岩窟のソクラテスを、葬り去ることなのだ。青年はゆっくりと唇を舐めると、一気にまくし立てた。
「他者の関心事」に関心を寄せよ
青年 お気づきですか? 先ほど先生は、こう言いました。「尊敬は、ぜったいに強要することができない」。なるほど、それはそうでしょう。わたしも大いに同意します。ところが、その舌の根も乾かぬうちに「生徒たちを尊敬しろ」とおっしゃる。ははっ、おかしいじゃありませんか! 強要できないはずのことを、ご自身がわたしに強要されている! これを矛盾と呼ばずして、なにを矛盾というのです!?
哲人 たしかに、その言葉だけを拾い上げると、矛盾して聞こえるでしょう。しかし、こう理解してください。尊敬のボールは、自らがそれを投げた人にだけ、返ってくるものだと。ちょうど、壁に向かってボールを投げるようなものです。あなたが投げれば、返ってくることもある。しかし、壁に向かって「ボールをよこせ」と叫んでも、なにも起こらない。
青年 いいや、適当な比喩でごまかそうったって、そうはいきません。ちゃんと答えてください。ボールを投げる「わたし」の尊敬は、どこから生まれるのです? なにもないところからボールは生まれないのですよ!
哲人 わかりました。これはアドラー心理学を理解し、実践する際の重要なポイントです。あなたは「共同体感覚」という言葉を覚えていますか?
青年 もちろんです。まあ、まだ完全な理解に至っているわけではありませんがね。
哲人 ええ、なかなか理解のむずかしい概念です。また時間をかけながら考えていきましょう。さしあたって、ここで思い出していただきたいのは、アドラーがドイツ語の「共同体感覚」を英語に翻訳する際に「social interest」という語を採用したことです。これは「社会への関心」、もっと嚙み砕いていえば、社会を形成する「他者」への関心、という意味になります。
青年 ドイツ語とは違うのですね?
哲人 はい。ドイツ語では共同体を意味する「Gemeinschaft」と、感覚を意味する「Gefühl」を組み合わせた「Gemeinschaftsgefühl」、まさしく「共同体感覚」という語を採用しています。もしもドイツ語に忠実な英訳をするなら、さしずめ「community feeling」や「community sense」といった語になっていたかもしれません。
青年 まあ、そういう学術的な話を聞きたいわけではないのですが、それがなにか?
哲人 考えてみてください。いったいなぜ、アドラーは「共同体感覚」を英語圏に紹介するとき、ドイツ語に忠実な「community feeling」ではなく、「social interest」の語を選んだのか? ここには大きな理由が隠されています。
ウィーン時代のアドラーが最初に「共同体感覚」の概念を唱えたとき、多くの仲間が彼のもとを去っていったという話はしましたね? そんなものは科学ではない、アドラーは科学であるはずの心理学に「価値」の問題を持ち込んだ、と反発され、仲間を失った話は。
青年 ええ、聞きました。
哲人 この経験を通じて、アドラーも「共同体感覚」を理解してもらうことのむずかしさは、十分理解していたはずです。そこで英語圏に紹介するにあたって、彼は「共同体感覚」という概念を、より実践に即した行動指針に置き換えた。抽象を具体に置き換えた。その具体的な行動指針こそが、「他者への関心」という言葉だったのです。
青年 行動指針?
哲人 ええ。自己への執着から逃れ、他者に関心を寄せること。その指針に従って進んでいけば、おのずと「共同体感覚」に到達すると。
青年 ああ、なにもわかっちゃいないな! その議論がすでに抽象的なのですよ! 他者に関心を寄せるという、行動指針そのものが。具体的に、なにをどうすればいいというのです!?