第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし
3年ぶりに訪れた哲人の書斎は、あのころとほとんど変わらなかった。使い込まれた机の上には書きかけの原稿が束になって置かれている。風に飛ばされないためだろうか、その上には金の細工が施された古めかしい万年筆が載せられていた。青年にはすべて懐かしく、まるで自分の部屋のようにさえ感じられる空間だ。あの本も持っているし、あの本も先週読んだばかりだ。壁一面の本棚に目を細める青年は、大きく息をついた。ここに安住してはいけない。わたしは、踏み出さなければならないのだ。
アドラー心理学は宗教なのか
青年 わたしは本日の再訪を決意するまで、つまりアドラーを打ち捨てる決心を固めるまで、かなり真剣に悩みました。あなたが想像する以上に、悩み苦しみました。アドラーの思想は、それだけ魅力的でしたから。しかし同時に、わたしがあのころから疑念を抱いていたことも事実です。その疑念とはずばり、「アドラー心理学」という名称そのものに関わっています。
哲人 ほう、どういうことでしょう?
青年 アドラー心理学の名のとおり、アドラーの思想は心理学だとされている。そしてわたしの知る限り、心理学とは科学であるはずです。ところが、アドラーの唱える言葉は、とても科学的とは思えないところがある。もちろん「心」を扱う学問ですから、すべてが数式で表されるようなものではないでしょう。そこはよくわかっています。
しかしですね、困ったことにアドラーは、「理想」にまで踏み込んで人間を語るわけですよ。まるでキリスト教が説く、隣人愛のような甘ったるいお説教を。さあ、そこで最初の質問です。先生はアドラー心理学を「科学」だと思われますか?
哲人 厳密な意味での科学、つまり反証可能性を持つような科学なのかと言えば、それは違うでしょう。アドラーは自らの心理学を「科学」だと明言していますが、彼が「共同体感覚」の概念を語りはじめたとき、多くの仲間が彼のもとを去っていきました。あなたと同様、「こんなものは科学ではない」と断じて。
青年 ええ、科学としての心理学をめざす者にとっては当然の反応でしょう。
哲人 このあたりはいまだ議論の続くところではありますが、フロイトの精神分析学、ユングの分析心理学、そしてアドラーの個人心理学は、反証可能性を持たないという意味において、いずれも科学の定義とは相容れないところがある。それは事実です。
青年 なるほど。今日は帳面を持ってきていますからね。しっかり書き留めておきましょう。厳密な、意味での、科学とは、呼べない……と! それで先生、あなたは3年前、アドラーの思想について「もうひとつの哲学」という言葉を使われましたね?
哲人 ええ。わたしはアドラー心理学のことを、ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学であると考えています。これはアドラー自身についても同じです。彼は心理学者という以前に、ひとりの哲学者であり、その知見を臨床の現場に応用した哲学者である。これがわたしの認識です。
青年 わかりました。では、ここからが本題です。 わたしはアドラーの思想について、よく考え、よく実践しました。疑ってかかっていたわけではありません。むしろ熱に浮かされたように、心底信じきっていました。ところが、特に教育の現場でアドラーの思想を実践しようとすると、驚くほどの反発が返ってくる。生徒たちだけでなく、周りの教員たちからも反発されてしまう。考えてみれば当然のことです。彼らとはまったく違った価値観に基づく教育を持ち込み、はじめてそれを実践しようとしているのですから。そしてふと、わたしはある人々の姿を思い出し、自らの境遇と重ねました。……誰だかわかりますか?
哲人 さあ、誰でしょう?
青年 大航海時代、異教徒の国に乗り込んでいったカトリックの宣教師たちですよ!
哲人 ほう。
青年 アフリカ、アジア、そしてアメリカ大陸。カトリックの宣教師たちは、言葉も文化も、神さえも違う異国の地に乗り込み、自ら信じる教えを説いていきました。まさにアドラーの思想を説かんと赴任した、わたしと同じように。彼ら宣教師だって、布教に成功することもあれば、弾圧され、残忍な方法で処刑されることもありました。いや、常識的に考えたら拒絶されるのが普通でしょう。
だとすれば、いったいどうやって彼ら宣教師たちは、現地の民に土着の信仰を捨てさせ、あらたな「神」を説いていったのか。これは相当に困難な道ですからね。ぜひとも知りたいと思ったわたしは、図書館に走りました。
哲人 それは……。
青年 おっと、まだ話は終わりませんよ? そうやって大航海時代の宣教師たちに関する書物を読みあさっていたとき、もうひとつおもしろいことに気づくわけです。「アドラーの哲学は、結局のところ宗教ではないのか?」と。
哲人 ……なるほど。
青年 だってそうでしょう、アドラーの語る理想は、科学ではない。科学でない限り、最終的には「信じるか、信じないか」という信仰レベルの話に行きつく。そしてまた、こんなふうにも思うわけです。たしかにわれわれの目から見れば、アドラーを知らない人々は、偽りの神を信じる野蛮な未開人に映る。一刻も早く、ほんとうの「真理」を教え、救済しなければ、と感じる。でも、向こうからすると、われわれのほうこそ、邪神を信奉する未開の民なのかもしれない。われわれこそが、救済されるべき存在かもしれない。違いますか?
哲人 無論、そのとおりでしょう。
青年 では、お聞かせください。いったいアドラーの哲学は、宗教となにが違うのです?
哲人 宗教と哲学の違い。大切なテーマです。ここは思いきって、「神」の存在を除外して考えると議論がわかりやすくなります。
青年 ほう。……どういうことです?
次回は2月24日(水)更新予定
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