文学や哲学の古典を私たちが読解しようとするとき、そこに時代を超えても変わらぬ価値があると期待しがちだ。確固とした、宝石のようなものがあるだろうと。しかし古典を受け取ることは宝石を受け取ることとは違う。
古典を読解するとは、受け手の生の感覚に新しく死者を蘇らせることだ。死者は死から抜け出して演舞する。それは受け手の願望の実現ではない。
受け手がわけも知らずその演舞に魅了されるとき、新しい息吹が訪れている。コルンゴルトのオペラ『死の都』の演出を見るとき、古典と劇というものの本質的な姿を体感させる。
まず、このオペラの背景を紹介しておこう。
オペラ『死の都』を日本社会が知ったのは、実際のところ2014年であると言ってよい。初演が1920年のこのオペラは、一世紀近い時間を経て初めて日本の大舞台で演じられた。遅れたのは日本だけでもない。コルンゴルト・ルネサンスともいえる国際的な現象は欧州、北欧、イギリスなどを経て静かに日本に及んできた。
前段はあった。1997年の生誕100年を記念した前年、日本でもその音楽部分が演奏会として初演されたことがある。またその翌年には会社員でありながら長年コルンゴルトを研究してきた早崎隆志氏による評伝『コルンゴルトとその時代』も出版された。
だがこの時期に紹介されていたのは時代的な制約もあるが、やはりCDによる音楽が中心だった。演出を表現する、映像メディアとしてのオペラ『死の都』について十分に参照ができる時代ではまだなかった。オペラ『死の都』の全体像が普及するには、つまり、また閉じ込められたその「死の力」を受け取るのには、まだ年月を要した。
なぜこのような一見不思議ともいえる現象が、オペラ『死の都』に起きたのだろうか。この作品の個別の背景を見よう。まず、コルンゴルトという作曲家が注目される。
コルンゴルトという作曲家
エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの生涯について『コルンゴルトとその時代』やメディアに添付された文書などを元に簡単に紹介しておこう。生まれたのは1897年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のブリュン(現在はチェコ内のブルノ)である。名前にモーツアルトの名前——ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト——の一部が刻まれているのは、当時ウィーンで音楽批評をしていた彼の父の期待があったからだが、すぐに期待は超えられた。その子、コルンゴルトはモーツアルトに匹敵する音楽の天才をモーツァルトのように幼くして現した。