幼稚園に通っていた3年間、アヤは七夕の短冊に、毎年同じ願いを書いた。
「うちにパパがきますように」
リョウもアヤも、パパがいなくて寂しいと思ったことは一度もなかった。そもそもパパのいる暮らしを知らなかったし、パパの代わりに、家にはいつもおばあちゃんがいてくれた。お父さんの絵を描きましょうという、いつかの幼稚園の課題で、アヤはおばあちゃんの絵を描いた。みんなと違うことは、自慢できることなんだよって、ママがいつも教えてくれていたから、クラスで1人だけパパの絵を描かなくても、アヤは気にしなかった。
完成した絵をプレゼントすると、おばあちゃんはとても喜んでくれた。だから、アヤも嬉しかった。 それでも、「パパがきますように」と願ったのは、パパが家にやってきさえすれば、ママが今ほど忙しく働かなくてよくなって、もっと長い時間、自分たちと一緒にいられると思ったからだ。
「ままにあいたい」
「ままはやくかえってきて」
他愛のない出来事が多く綴られるリョウの日記とは対照的に、アヤの日記には毎日、正直な寂しさが綴られていた。
「ままも、りょうとあやにはやくあいたいよ」
「りょうとあやは、ままのたからものだよ」
眠っている間にママが残しておいてくれた言葉を、2人は朝になると、何度も読み返した。
数年前のあるとき、リョウ達3人は、幼馴染のレイちゃんの家の食事会に招かれていた。レイちゃん一家とは、昔から親戚のように親しくしていた。パパという存在を知らなかった幼いリョウとアヤは、レイちゃんが父親のことを「パパ」と呼んでいるのを見て、すっかりそれを名前だと思い込んだ。それで、自分たちも同じように、レイちゃんのパパを「パパ」と呼ぶようになった。レイちゃんのパパも、決してそれを訂正しようとはせず、リョウとアヤを、レイちゃんと同じように可愛がってくれるのだった。
その日の食事会には、リョウたち家族以外にも数人のお客さんが集まっていて、いつにも増して賑やかだった。レイちゃんのパパが、そのうちの1人、山崎さんというおじさんを3人に紹介してくれた。山崎さんとレイちゃんのパパは、古くからの友人だという。山崎さんは、決して自分からたくさん話そうとはしないものの、たまに誰かに話をふられると、ぼそっと関西弁混じりの冗談を言う。それがすごく面白くて、山崎さんが話すたびに、みんながどっと笑った。
「アヤちゃん、このおじさん大阪出身なの。面白いでしょ」
レイちゃんのパパがアヤに尋ねると、アヤはにっこりと頷く。ところがこのとき、山崎さんの冗談を誰よりも面白がったのは、実はリョウの方だった。大人たちがふと気がつくと、いつの間にか、山崎さんの側にぴったりくっついて座り込んでいたリョウ。ふんふん、と黙って耳を傾けてくれる山崎さんに、興奮気味に、延々と得意のお喋りを続ける。
「リョウくん、よう喋るなあ」
ようやく話が途切れたタイミングで、山崎さんがおかしそうに言うと、幼いリョウは、照れた様子で笑う。 楽しくて仕方がないとき、リョウのお喋りは止まらなくなる。家族にとっては見慣れた光景だが、初対面の男の人の前で、リョウがそんな一面を見せることは、これまで一度だってなかった。大人の男の人は、リョウにとって未知の存在であって、低い声や大きな体は、無条件に恐怖の対象だった。学校の先生にさえ、すぐに打ち解けることができなかったほどで、この日のリョウの様子に、ママは内心とても驚いていたという。
この食事会をきっかけに、リョウたち家族と山崎さんは、定期的に会うようになった。食事を共にしたり、映画やカラオケに一緒に出かたり。ひとたび山崎さんが家に遊びにやってくれば、帰らないで、と2人がいつまでもしつこく引き止める。そんなこともあって、山崎さんは次第にリョウたちの家に泊まっていくようにもなった。リョウもアヤも、優しくて面白い山崎さんのことが、たちまち大好きになった。