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「本では書けない駒場寮のキワドい話」@下北沢B&B、12月24日開催!
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私が東京に出てきて知ったことのひとつは、たとえ東京で生まれ育った人たちであっても、都内で訪れたことのないスポットは意外と多い、ということだった。たとえば、東京タワーに上ったことがない東京出身者は、意外なほどに多い。
私はよく、東京で知り合った新しい知人たちを、駒場寮に呼んだ。そして、「本当にここに人が住んでいるの?」などと驚く、そのときの反応が興味深かった。
「駒場寮の魅力は、その混沌の中にあり」という趣旨のことを言うのは、だいたい、駒場寮で暮らした寮生たち自身である。
その一方で、寮に関わりのない人からはよく「駒場寮なんて古くて汚いだけだ」という声が聞かれる。ともかくも「汚い」ものというイメージが強いのだろう。マスコミ側が好んで撮影するのはだいたい、きちんと片づいている面白みのない部屋ではなく、散らかり放題の面白い部屋である。
駒場寮を語る際に多く使われる言葉は「古い」と「汚い」だ。ただし、古いと汚いはイコールではなく、分けて考える必要がある。「古いけれど、美しい」ということもあれば、「新しいけれど、汚い」ということもあるだろう。
明治の時代に当時の校長が寄宿寮に与えた四綱領の一つは
「衛生ニ注意シ清潔ノ習慣ヲ養成セシム」
というものだった。しかしその理念は守られていたとは言いがたい。兵舎などとは対照的に、戦前の旧制高校の時代から、学生寮の部屋は乱雑なものと、相場は決まっていた。
昭和に入って、一高が駒場に移り、新築でぴかぴかの駒場寮が建てられた。この最初の時点からすでに、寮生の部屋は散らかり放題だった。竹山道雄は一高の部屋の様子を、『新女苑』という若い女性向けの雑誌に、以下のように記し、また当時の寮生たちを弁護している。
<部屋はまるでごみ溜のようで、幾度清潔運動がおこってもまたいつの間にか元の有様にかえりました。服装もきたなく、ことに終戦前後などは、今だったら乞食としか見えないでしょう。
しかし、このような無頓着は、じつは精神的清潔のあらわれでもあったのです。ことに戦争中は高い精神力を発揮しました。あの一見しただらしのなさは、俗流への反抗でした。身のまわりに気をつけることは、下らない瑣末なことに思われたのです。おしゃれをすることなどは唾棄すべきことでした。事実たまにおしゃれをする人がいると、その人はあまり人間として感心しない人でした。若い人たちはただ一途に理想の夢を追っていました。これが不精と結びついて、あのような結果を生んだのでした。一高の蛮カラは有名でしたが、今もし『新女苑』の読者諸嬢があれを見たら、きっと「何という奇人だろう!」と胆をつぶすか、笑い出されるだろうと思います。>
(竹山道雄「二十歳のエチュード」『新女苑』1954年4・5月号)
以上は一高の生徒たちによく慕われた竹山らしい、かなり好意的な見方であろう。身なりにかまわず、樽の中で暮らしたという古代ギリシャの哲学者、ディオゲネスを連想させるような書きぶりだ。
戦後の駒場寮では、「女人禁制」という古い不文律は適用されなくなった。そこで、東大に入学した息子はどういう生活を送っているのだろうかと、母親が寮を訪れることがあった。そして、寮生の母たちはたいていは絶句して、言葉を失うことになる。
1952年11月、秋の駒場祭を前にして、細溪正子さんという女性が、駒場寮を訪れた。細溪さんは「朝日新聞」夕刊の投稿欄「ひととき」の投稿者だった。「ひととき」は戦後に増えた女性投稿者のための欄として人気を博し、現在も続いている。甥が学生という細溪さんは、読者を代表して、駒場寮のレポートを書くことになった。そして、寮生の部屋を見て、驚いた。