松本博文『東大駒場寮物語』(KADOKAWA)、12月10日発売決定!
オオスキトモコさんによる、廃寮直前の駒場寮の写真集、発売中!
併せて駒場寮のミニ写真展を11月21日「デザインフェスタ」@東京ビッグサイトで開催!
(場所は西ホール・A-13になります)
寮には居住棟とは別に、大きな寮食堂のホールがあった。ただし、寮生だからといって、寮食堂で食事をしなければならない、という義務はない。希望者だけが、寮食堂を利用した(寮食堂の運営の変遷については、自治寮としての駒場寮の歴史を語る上で重要なテーマであり、本書第2章で詳述している)。
駒場寮の斜め向かいの建物には、生協が運営する食堂が3つあった。1階には第一食堂(一食)。二階には第二食堂(二食)があり、その奥にはカフェテリア形式のグリル・スパコーナー(グリスパ)が新しくできていた。私はよく、男子学生が多くて地味な一食で二百数十円のカレーを食べていた。いかにも学食らしい味のカレーだった。比較的女子学生が多いグリスパは少し値段設定が高くて、私はほとんど行ったことがなく、行っても駒場寮生を見ることは、ほとんどなかった。一食は「理Ⅰ食堂」、グリスパは「文Ⅲ食堂」という呼び方もあった。理Ⅰは駒場の最大派閥で、男子学生率が高く、理Ⅰドイツ語クラスあたりになると、男子学生60人に、女子学生1人、という感じだった。一方の文Ⅲは男女比率が半々ぐらいだった。
駒場キャンパスの周りには、多くの飲食店があった。キャンパスの東南側には、通称「矢内原門」と言われる、かつての教養学部長の名にちなんだ、小さな出入り口がある。そこを出て、階段を降りていくと、駒場の商店街がある。東大の学生はそのあたりを駒下(こました)と呼んでいた。一方で、キャンパス東北側の裏門を出た「たけ」のあたりは、駒裏(こまうら)と呼ばれる。駒寮生は地元住民となるため、必然的に、駒場界隈の飲食店に詳しくなる。
裏門を出ると、目の前は車が頻繁に行き交う山手通りで、そこから通りが分岐して、三叉路になっている。すぐ近くには、その名の通りの「三叉路」というカフェがある。私たちより上の世代の寮生には、この店の常連が何人もいた。戦後のアウトロー史を語る上では、渋谷の安藤組の名がよく登場するが、三叉路のオーナーは、元安藤組の池田民和だった。池田は2006年に亡くなった。その後はオーナーが変わり、絵本カフェとして営業していたが、それも最近、閉店してしまった。
裏門を出て、三叉路を東に行けば、渋谷、目黒方面。渋谷まで歩けば、十数分の距離だ。ちなみに駒場寮はしばしば、「渋谷から歩いて十五分で行けるスラム」という言われ方もした。
三叉路を北に行けば、新宿方面。すぐ近くにはセブンイレブンがあって、寮生がよく通うために、全国有数の売り上げだったと聞いたことがある。また、やはり寮生がよく通うレンタルビデオ店「麻布シネマ」があって、繁盛していた。私も前述の『櫻の園』や、寮内広報誌「ぷあ」で勧められていた『悲情城市』や『バグダットカフェ』などはここで借りた。
駒裏には「べらぁめん」という、ユニークなラーメン店があった。堀江貴文はブログ上でばっさりと、「まずい」と断言している。同様に、多くの寮生にとっても、まずいラーメン店の代名詞のようなところだった。そして、まずいまずいと言われながらも、なぜかリピーターは多かった。
ある寮生は「目にしみるほどまずい」とこぼしながら、くり返し「カラス(辛酢)めん」を頼んでいた。私は決まって「野菜らーめん」(タンメン)を注文する。というか、これしか頼まなかった。まずい、とは思わなかった。むしろ、駒場周辺の隠れた人気メニューだったように思う。
このべらぁめんは、数年前に閉店したという。堀江さんはこう記している。
<そうか、もうあのまずいラーメンは二度と食べられないのか。そう思うと、なんだかあの駒場寮での学生生活の事が走馬灯のように思い出されて、なんだか感傷的な気分になった。>
(http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10289413840.html )
後年、私は福地誠から「べらぁめんがまずいなんてぜいたくだ」と言われた。福地は80年代中頃、最悪の時には一日100円の食費で暮らしていたという。寮食堂のライスが60円、冷奴と生卵が20円、カレーライスは100円。そういう安い食事が生命線という寮生ももちろん、たくさんいた。