「じゃ、ぼちぼち本番、いきましょう!」
音響監督がそう言って手元のスタンドを灯すと、副調整室全体の明かりが落ちて暗くなった。録音技師がこれから収録する内容を、マイクに吹き込む。「『ARMANOID』最終回、後半!」
金魚鉢の中では、アニメ映像を映すモニターとマイクポジションの小さな電灯だけが浮かんいた。さっきほんの少しだけ見えた美島こずえの後ろ姿も、もう確認できない。オレは、今日彼女と顔を合わせていない。アフレコがはじまる前も休憩時間も、オレは彩色のチーフに捕まっていたのだ。キミが昨日やったカットね、色間違いあったから。帰ったら、またお部屋においで。
収録は順調に進んだ。ARMANOID部隊が敵の罠にはまり、窮地に追い込まれる。そのあたりはオールCGで、来週のダビング前にはかなり恰好いいムービーが上がってくるはずだ。アフレコでは線撮りだったカットを、編集でそれと差し替えることになる。
ケイゾーが敵地に乗り込み、必死にシュオンを探す。問題のシーンが、近かった。思わず奥のソファを見ると、星山さんと目があった。宿題を忘れてきた小学生のように、困ったような笑みを送ってくる。その責任は、オレにもあるのだ。昨日電話を切る間際に、美島こずえがふと口走った言葉が浮かんだ。
「さっき、柏原さん、触覚的って言いましたよねぇ?」
「ケイゾー・ファイルのことっすか?」
「うん。そしてその後シュオンは、記憶を取り戻す。というか、本来の超能力者としての力を一気に復活させる」
彼女の言う通り、シュオンは能力を発揮し、危機一髪敵の中枢を破壊して防衛軍を救うことになる。何を言い出したのかと計りかねていると、美島こずえが続けた。
「なんだか柏原さんと話してきた中に、その答えがないかしら?」
今度は、あなたとオレとの宿題になりそうですね。オレはそんなバカなジョークを言って、お休みなさいと電話を切った。彼女がせっかく投げてくれた言葉を、この時オレはまだきちんと受け止める用意ができていなかったのだ。
モニターには、ケイゾーの切迫した様子が映っていた。ポッドのコックピットを操作し、パネルにシュオンの脳に埋め込んだチップの画像を映し出していく。ロック解除の文字が点滅。ポッドから小さな銃口がせり出し、発射の準備が整っていく。それはチップを覚醒させ、ファイルを開かせる装置なのだ。
「シュオン! シュオン!」
瀕死のシュオンが、のたうち回っている。美島こずえが、感情を押し殺しうめく。ケイゾーはそのシュオンをモニターで捉えながら、放射する角度を計算していく。執念の鬼となった形相。こんな表情はキャラ表にはない。大石さんは、このカットを原画はもちろん動画まで描き下ろしていた。鉛筆の荒々しいタッチをわざと残し、いつもは穏やかでやさしいケイゾーの芯の強さを前面に浮かび上がらせている。
その絵が、ドンとオレを打った。大石さんのドラムが、腹に強烈な一撃を響かせたみたいに。険しい顔のケイゾーと、なぜかベソを掻く七歳のケイゾーがフラッシュバックする。殴られ目蓋を腫らしたケイゾーが、怒るシュオンに泣いて縋りついたあのシーンが浮かび上がってくる。ドンドン! シュオンは、悪くない。ドン! ケイゾーは母親に抱かれたことがない。ドンドン! で、どうよ?
シュオンの、匂いがする。——犬かお前は。
母親の心音を聴いたことがないケイゾーは、だがきっとシュオンの匂いはずっと忘れないで覚えている。シュオンが魂を抜かれ、たとえロボットになってしまったとしても、七歳の時に嗅いだあの匂いを忘れることはできない。そしてそれは、きっとシュオンにしても同じなのだ。
なんか哀しいのね、匂いって。バカみたい・・・。
美島こずえが前に言った。バカみたいな体験なら、オレにもある。横になる線路を間違え死に損なった時、オレは遠ざかっていく列車を呆然と眺めた。死の世界に連れて行くはずの列車はオレからぐんぐん離れていき、いっぽうで過去から猛然と遡ってくる気配があった。マヌケな顔でそれを嗅ぎ取ると、それは行ってくるよと玄関を出て行ったあの時の親父の匂いだと気づいた。石鹸の香り。それはたしかにオレが、親父の背中に擦り付けた匂いだったのだ。
「義人、もっともっと強くだ。それで力、入ってるのか?」
親父の背中を洗っていて、そんなふうに言われたのはあの晩が最初で最後だった。スポンジで小さく円を描くようにして、石鹸がよく泡立つようにやるんだ。そう言ってた親父が、その日はなぜだか強く擦れと繰り返した。ほら、左手で父さんの肩をしっかり握って。そうすると力を出せるだろ。もっとスポンジを押し付けるようにして。
ガキのオレは、はじめは面白がって必死に力を込めた。父さん、背中が真っ赤になっちゃうよ。痛くなっても知らないよ? 痛いもんか。もっとゴシゴシやってくれ。だがそのうち細い腕が痛くなり、親父の大きな背中がとても攻略不能な壁に見えてくると、なんだか泣きたい気分になった。それで、もう疲れたよぉ、と弱音を吐いた。親父は「そうか」と諦めたように笑うと、お湯をかけて石鹸を流した。親父の背中は、やはり赤くなっていた。臆病者のオレは、仏壇に置いてあった花瓶を割ってしまった時のように、真っ赤だよと犯した罪を白状するように言った。痛くない? 親父は、背中を向けたままだった。なんだか息を整えるように、肩が揺れていた。そしてその肩が改まって大きく息を吸いゆっくりと吐き出したと思うと、ぽつりとヘンなことを言ったのだ。
「義人が擦ってくれたおかげで、痛くない」
その時のオレは、父さんがヘンなことを言ったなとしか感じることができなかった。
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