越野に買収のことを否定された三上の脳裏に浮かんだのは、前任の坂井虎男の顔だった。手帳に挟んである小さなメモに記載された坂井の携帯番号を見つめる。そして胸ポケットに手をかけるも、静かにその手を下ろした。やはり、自分がこの番号にかけるわけにはいかない。このメモは三上が直接坂井にもらったものではなかった。数日前、営業部最年少の草加のディスクの下で見つけたものだった。内容を確認し驚きのあまり目をしばたたかせていると、外回りから草加が戻ってきた。
「三上さん?」草加の声にハッとした三上は、咄嗟にそのメモを拳の中に封印した。草加と坂井は連絡を取り合っているのだろうか? そう思うと、じわじわと形容しがたい思いが沸いてくるのを感じる。以前は坂井などにまったく興味がなかったというのに。三上はそんな自身を小さく嘲笑した。
*
三ヶ月前。
草加が出社をすると、いつものひな壇には坂井の代わりに越野が座っていた。その状況に、少なからず営業陣は戸惑いを隠せない様子だ。しかし草加は飄々としていた。胸中で渦巻く当惑は誰にも知られたくない。坂井ごときいなくなったからといって、狼狽する姿を見せたくなかった。表情一つ変えずに淡々と仕事をこなしていると、書類の間から小かなメモ用紙が顔を出した。目にした瞬間、それがなんであるのか草加は悟った。5mm方眼のそのメモ用紙はいつもアイツが使っていたものだ。草加はそれを静かに抜き取ると、ケツポケットに突っ込み外回りへ出かけた。
オフィスを出た草加はケツポケットにふたたび手を突っ込みメモを見つめる。『他では得られないような経験をさせてあげましょう』そう言った坂井の顔を思い出すと、底知れぬ怒りが込み上げる。あんなことを言って俺を引き止めたくせに、自分だけさっさと辞めちまうなんて。込み上げる怒りのまま草加はボタンを押した。
「はい、坂井です」コール2回目で出た坂井に、咄嗟に言葉を失いゴクリと唾を呑み込む。
「草加くんですね?」
「は、はい」
「こんなに早く君が電話をくれるとは思っていませんでした」
「いや、だって坂井部長いったじゃないですか。『他では得られないような経験をさせる』って。それなのに、一人でさっさと辞めてしまうなんて、無責任すぎませんか?」
「本当に申し訳ないと思っています。私の力不足です」
「力不足って……。やっぱり僕も退職届を出そうかと思います」
「辞めてどうするつもりですか?」
「新しいことに挑戦している会社に行きたいと思います」
「新しいこととは?」
「IT企業とか。先日テレビで特集されていたのですが、あるネットサービスの会社では、目標をあえて決めないそうです。それは社員に遊んでほしいからで、遊ぶことで『アイデア』が産まれていいサービスが作れるようになるそうです。うちのように高い目標設定をされ、絶対達成しろと言われ、辟易としている社員たちと一緒に仕事をする時代では、もはやないのだと感じました。うちがここまで落ちぶれてしまった事実が物語っています。あえて目標設定をしない会社がこれから伸びていくのです」
「そうですか。ではその根拠は何ですか?」
論理的思考の草加は、曖昧なことは口にしたくなかった。
沈黙が続く。
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