午後1時。席に戻るなり村中が美沙に訊ねた。
「浅井さん、常務に会えた?」口にはしなくとも、すでに美沙のほころぶ頬が答えを物語っている。
「村中さんのおかげです! 『蕎麦吉』に行ったらちょうど常務が席についたところでした」
「まぁ、坂井部長の受け売りだけどな」照れた様子の村中は即座に口にするも、嬉しそうに破顔した。
村中は坂井に教えられていた。顧客のキーマンに会うには、うちの常務に話をつけることだ、と。組織営業の活用法だ。自社、他社問わず、多忙な人間に会うのは困難だ。自社といえども常務と話せる時間が取れるとは到底おもえなかった。しかし、どんなに忙しい人間でも食事はする。その時間に会いに行くのだと教えられた。常務は貪欲な営業マンが大好きだ。喜んで話を聞いてくれた。
「はじめは驚かれていましたが、ひとりで食べるより100倍おいしくなるって」
「うわっ。俺のときは10倍だったのにな。まったく」本気で悔しそうな村中の姿が子供っぽくて、美沙はおかしみを感じてしまう。こんな風に営業の男性とやり取りをしていることが、数ヶ月前の美沙には考えられないことだった。仲間になれた、そう思った。
ただ……相変わらず負のオーラに包まれている上杉に美沙はかける言葉を見出せずにいた。話しかける勇気を持てないまま、一週間がすぎた。
美沙はオフィスビルの地下にあるコンビニにコーヒーを買いに来ていた。こういうときに限って小銭切れ。美沙は店員に野口英世を差し出す。「あっ」そのとき一枚の紙切れが床に落ちた。それを見た美沙は一週間前常務に元気付けられたことを思い出し、あることを思い立った。
オフィスに戻った美沙は、自席に戻らずまっすぐ上杉の元へ向かった。
「上杉さん、お昼はどうされる予定ですか?」
「いつもどおり、下の弁当やさんで買ってくるつもりだけど」
「よかったら『蕎麦吉』に行ってみませんか? このまえ天婦羅ひとつサービス券もらったから使ってきてください」
上杉の脳裏に先週の美沙たちの会話が蘇る。水曜日11時、『蕎麦吉』に行くと常務に会える。上杉は美沙の見え見えの魂胆に、自然と眉根を寄せていた。常務に会って来いということだろうか。美沙の魂胆は気に食わない。しかしここで突っぱねるのも大人気ない。
「ありがとう。行ってくるよ」上杉はサービス券を受け取った。
*
「平井常務、よろしかったらご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
上杉は丁重にお伺いをたてた。
「おっ、君も坂井くんの部下だったのかね?」
「はい」
「もちろん、どうぞ」平井は端正な顔をくしゃっとさせて嬉しそうに座るよう右手で促した。
「上杉恵介です」
「上杉くん、君は本気で仕事をしているかね?」唐突な質問に上杉は狼狽するも、
「はい」と答えた。
「最近、悔しい思いをしたかね?」さらなる質問には確信を持って、
「はい」と答える。最近は悔しい思いしかしていない。
「そうか。悔しい思いをしたということは、本気で仕事をしたということだ。そして、期待どおりにいかなかったということだな」
「……はい」
「期待どおりにいかなかったことを教えてくれるかね?」
「はい。ある顧客から装置を2台受注したいと言われていました。半年ほど前から担当者と話をつめて、その顧客の要望どおりのに仕様変更もしてきたんです。それが突然、予算編成があり今期は見送ることにしたと言われました。社内にはほぼ確実だと話していたので、部長にも呆れられてしまって。製造部からはオオカミ少年呼ばわりです。たしかに、言ったことと結果が伴っていないんですから、仕方がありませんが……」
「なるほど。うちにも事情があるように、顧客にも事情がある。営業の事情も製造の事情もある。思い通りにいかないのがビジネスだ。悔しいかもしれないが、今はその気持ちを次につなげるしかない」
「……はい」
「上杉くん、新規顧客開拓で今期はどれくらい稼ぐつもりか考えているかね?」
「そうですね、現状、既存顧客の当てがなくなってしまったので、2億くらいは積み上げたいと思います」
「2億か。すでに新規顧客リストは準備できているのだね?」
「い、いや……」
「まさか、これから探すなんてことはないだろう?」
「……」
「以前私が営業部長をしていた頃、こういう部下がいてね。新規で3億は稼ぐと宣言したはいいが、結果はゼロだ。提案書作成に思いのほか時間を費やしてしまい、思うように顧客訪問ができなかった、なんて言うんだよ。意識の低い部下は本当にまいるよ。上杉くんは新規開拓の準備や種まきはしっかりとやってきたのかね?」
「えっと……」
「いつから始めるのかと質問をすると、ちょうど今月からスタートしようと思っていた、と言う部下もいたな。これも本当にまいった。おいおい、って感じだろう? ははは」平井はわざとらしく声を立てて笑った。完全に上杉は返事に屈していた。
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