真赤を迎えに行くために原宿まで移動するその途中、母から電話があった。
年が明けてから挨拶もしていないことを気にしていて、今度顔でも見せに来いと言う。僕は億劫に思い最初は曖昧に返事を誤魔化していたが、途中で気が変わり、近いうちに訪ねると伝えて通話を切った。
僕が家を出た後、上の弟は知り合いの柔道整復師の先生の家に住み込み、その仕事を手伝いつつ専門学校に通っているらしい。母と下の弟はアパートを借りて一緒に住んでいる。母はパートタイムで働き、下の弟はやはり資格をとるために学校へ通っているという。父はあのままどこへ行ったのか知らない。僕たちが住んでいたあの家は、銀行に差し押さえられて競売にかけられたというところまでは知っているが、結局人手に渡ったのか、どうか。さほど思い入れはなかったし、疎遠でいたはずなのだが、自分にはもう帰るべき場所がないのだと思うと、なにやら特有の感覚があった。
実家というものは、案外情緒の根幹的な部分に影響するものなのかもしれない。ちっとも気がつかなかった。人間何事も、体験してみないとわからぬものだ。
しかし『一家離散』と他人事ならば重大な感じがし、なにやらドラマチックな雰囲気もあるが、実際なってみると、これはどうも平凡なものだ。両親は離婚し、実家は借金のカタに奪われ、一家は離散し、そして本人は学校を退学しており、先も見えないという状況のまっただなかにいるのだなあと、こう一つ一つ並べると、おお凄いなあ、絵に描いたような典型的な、ステロタイプな、わかりやすい転落人生だなあと思うけれども、まるで実感がない。どうも、上滑りしている。はっきり言って、幼年時代の思い出の方がよほど苦しい。もっと言えば、何年も前に恋人に離別を告げられたことを思い出したり、定食に苦手な食材が入っていたりしたほうが大事件で、苦しいくらいだ。
そもそも僕などは頭の中で考えていることの大部分が、目の前の具体的なことでなく、形而上的と言えば聞こえは良いが、曖昧で何の役にもたたぬ非生産的な行ったり来たりでしかない。空想家なのだろうか。どうも、この悲劇的セッティングに対して、あまり構ってやれなくて、気にしてやれなくて、申し訳ないような気分だ。
いつだったか、誰かの葬式に出た時に、故人の近親の老婆が故人の思い出に一言も触れずに仕出し料理の不満ばかり切実に語っていたのを思い出す。あの時僕はなんて情のない人間だとその発言に一々辟易していたが、あれはきっと、人生の真実だったんだな。
ともあれ僕らは真赤のマンションに向かっていた。彼女をうちに引き取ると決めて以来興奮が持続して、一睡もとれていない。そして、夜に急に不安になる真赤の電話に対応したり、彼女を受け入れるための準備をあれこれと考えていた。普段だったらこれだけ活動を続けていたら精も根も尽き果てているところだけれど、なんだか知らぬが酷く充実した気分で身体は軽かった。飯もろくに食っていないというのに。考えてみれば、今までの僕の行動のほとんどは、やむにやまれぬ圧力に従って、あるいは、それからの逃避でしかなかった。消極的な防衛戦でしかなかった。今回は違う。僕から物事を動かしたのだ。自分のためではこうはいかない。他人のためだからこそ、疑いなく行動できるのだろう。これが目的のある状態というものなのか。世間の人は、常にこんなに高いモチベーションで生きているのか。だとしたら勝てないわけだ。
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