彼女はまたスマートフォンでネットサーフィンをはじめた。
僕は外の景色を眺めていた。
「東京で仕事してるの?」僕はまた話しかけた。
「あっ、はい」と彼女はこたえた。「まだ、働きはじめたばかりですけど」
「新入社員?」
「はい」
「だったら、まだ1年経ってないんだね」
「そうですね」
「けっこう大変じゃない?」
「大変ですよ」と彼女は力を込めて言った。「学生のときとは大違い。毎日、こき使われてます」
「大変だよね。僕も働きはじめて最初の1、2年は大変だったよ。学生はしょせんはお客さんだからね。自分がサービスを提供する側になると、ぜんぜん違うんだよね。でも、そうやってがんばってると、仕事もどんどん面白くなってくるよ」
「そうだといいんですけど……」
「仕事は何してるの?」僕は聞いた。
「ハンドバッグが有名なブランドに就職しました。いまは販売員をやってます」
「だからそんなオシャレなバッグを持ってるんだね。それも自分の会社のでしょ?」
「そうです。わかりました?」
「うん」と僕はうなずいた。彼女は嬉しそうにしている。「販売員だと、平日が休みになるんだ?」
「そうですね」
「平日休みだと、観光地を旅行したり、美術館に行ったりするのもいいよね。ディズニーランドも空いてるし」
「でも、学生時代の友だちと休みが合わなくなってしまって、ぜんぜん会えないんです」
「そうだね。僕も最近、友だちに会ってないな」
「東京で仕事をしているんですか?」
困る質問だった。失業していることを隠して、嘘をつこうかと思った。でも、よく考えて、正直に言うことにした。
「うん」と僕は言った。「ずっと東京で仕事をしていたよ。最近、仕事を辞めて、こうやって休暇を楽しんでいるところなんだけどね」
「どんな仕事をしていたの?」
「特許に関する仕事だよ。特許ってわかる?」
「聞いたことはあります」
仕事をしていないことを伝えてもそれほど深刻に受け取られていないようで、僕はすこしホッとした。
「たとえば、いま君が飲んでるそのお茶。きれいに透き通っていて、ふつうのお茶と違って、すこしも濁ってないでしょ」
「ああ、確かにそうね」
「お茶のおいしさや香りの成分はそのままで、澱や沈殿物だけを濾過する方法をそのメーカーはいろいろ研究して発明したんだよ。でも、その技術を他のメーカーが真似したら、真似されたほうは困るよね。たくさんお金をかけて開発したのに」
「そうですね」
「だから、そうした最初に発明した人の権利を法律で守らないといけないんだ。それが特許。そのお茶ひとつでも、旨味成分の抽出法や雑味の取り除き方、ペットボトルの形状やフタに至るまで、たくさんの特許が関わっているんだよ」
「へえ」と彼女はとても感心していた。「ところで、どうして仕事を辞めたんですか?」
「この1年の間に、本当にいろんなことが起きた。あまりにもいろんなことがあり過ぎて、僕にはすこし休息が必要だったんだと思う」
「どんなことがあったんですか?」と彼女は聞いた。
「ある人に出会って、人生がすっかり変わってしまった」
「どんな人?」
「何でも知っている人だよ。僕たちはよく飲みに行ったり、遊びに行ったりするようになった。僕の知らない世界をたくさん見せてくれた。そして、僕の人生はすっかり変わったんだ」
「どんなふうに変わったの?」
「そうだなあ」と僕は考えこむ。「たとえば、どうやって女性を愛すればいいのかを知ったことかな」
「何それ?」彼女はおかしそうにしている。「ちょっと、何があったの?」
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