思いがけない坂井の急な退職。
いままでは常に無表情、冷酷無比が服を着たような坂井の存在に、美沙は辟易としていた。前任の穏やかな越野にどれだけ戻ってきて欲しいと願ったことか——しかし、実際坂井が退職をし越野が戻ってきたいま、美沙は戸惑いしかなかった。感情は喜びより憂いだった。
坂井に託されたファイルを静かに閉じると、美沙はさっそく営業の仕事——客先訪問へ行く準備をした。ホワイトボードへ行き先を記入していると、
「あれ? 浅井さんどこかに行かれるんですか?」いつものアーチ型の目で微笑しながら越野が現れた。
「はい。ミツイさんに入れている装置が不具合を起こしていまCS(カスタマーサポート)が行ってるので、私も様子を伺いに行こうかと」
「あぁ、それでしたら浅井さんが行く必要はありません。CSに任せておいてください」
「でも——」
「浅井さんは事務の仕事もあるんですからね。電話だって浅井さん以上に早く取れる人間はいないですから。オフィスにいてください」
美沙が返事をする前に、越野は自席へと戻っていた。
電話なんて誰でも取れるのに……“浅井さん以上に早く取れる人間はいない”なんて、越野は自尊心をくすぐってやったというような満足そうな笑みを浮かべていたが、美沙は堪らない気持ちになる。
ここで引き下がっていいのか……やりきると決心したはずだった。美沙はひな壇の越野の席へと向かう。
「越野部長、事務の仕事もしっかり行うつもりですが、今日のところは急ぎの仕事はありません。ミツイさんに少し様子を見に行ってもよろしいでしょうか? 午後一には戻ります」
「そこまで言うのでしたら、行ってきてください。浅井さん——」
「変わりましたね」アーチ型の目は崩さなかったが越野の口元は笑っていなかった。その表情に一瞬ドキリとしたが、美沙は臆することなく言った。
「はい。変わると決めたので。訪問件数二倍も自分で決めたのでやりきります」
「そうですか。頼もしいですね」言葉こそ美沙を讃えていたが、嘲笑されているように美沙は感じた。
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